過去の上演作品[2001-2005]

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PERMANENT WAY

 

パーマネント・ウェイ

作=デイヴィッド・ヘアー

訳=常田景子

演出=坂手洋二


<東京>2005年11月20日(日)〜12月4日(日) シアタートラム 


 

05/11/20

<民営化>と<安全>の、衝突。

劇作家が見た、鉄道事故の真実。


安全なはずの列車がなぜ脱線したのか?単純なことです。
列車は遅れていた。だからレイルトラック社は、速度を上げさせた。

あのシステムの問題は、誰もが責任転嫁できて、
誰も何の責任も感じないっていうことです。

撮影=大原狩行


CAST

乗客1……久保島隆
乗客2……江口敦子
乗客2’……小金井篤
乗客3……渡辺美佐子
乗客4……大西孝洋
乗客5……杉山英之
乗客6…… 中山マリ
乗客7……裴優宇
乗客7’……樋尾麻衣子
乗客8……川中健次郎
乗客9……向井孝成

大蔵省高官……猪熊恒和
元運輸省高級官僚……鴨川てんし
投資銀行家……杉山英之
ウェンディ秘書……工藤清美
ジョン・プレスコット副首相……川中健次郎
ベテラン鉄道技師(コンサルタント)……内海常葉
民間運行会社鉄道重役……中山マリ
サリー秘書……工藤清美
実業家(ヴァージン社社長)……川中健次郎
キャットウィーゼル(線路作業員)……杉山英之Ω
ロッカー(線路作業員)……小金井篤
ラスティン・ホフマン(線路作業員)……猪熊恒和
ビッグ・ヒープ(線路作業員)…… 阿諏訪麻子
スヴェン(線路作業員) ……向井孝成
ストーミン・ノーマン(線路作業員)……安仁屋美峰
パイマンチャー(線路作業員)……樋口史
JH(線路作業員)……内海常葉
ドッグホール(線路作業員)……久保島隆
線路作業員 ……中川稔朗
英国鉄道警察官 ……大西孝洋
巡査……裴優宇
遺族母1……渡辺美佐子
遺族父……鴨川てんし
警察上司……猪熊恒和
鉄道労働組合長……裴優宇
同副書記長……小金井篤
ドーン組合員……工藤清美
弁護士……樋尾麻衣子
デニムの若い男 ……久保島隆
被害者グループ創設者……江口敦子
遺族母2……渡辺美佐子
レイルトラック取締役……猪熊恒和
カレン卿……裴優宇
遺族代表者……小金井篤
スコットランド人文学編集者……大西孝洋
もう一人の運行会社重役……鴨川てんし
ハットフィールドの牧師……川中健次郎 
メンテナンス会社の技術部長……内海常葉
空軍少佐……向井孝成
遺族未亡人……中山マリ

アンダースタディ
松山美雪(弁護士)
市川実令 坂田恵 椙本貴子 塚田弥与以 亀田ヨウコ(作業員)



STAFF

美術=加藤ちか
照明=竹林功(龍前正夫舞台照明研究所)
音響=島猛(ステージオフィス)
音響操作=勝見友理(ステージオフィス)
衣裳=前田文子
舞台監督=森下紀彦
演出助手=吉田智久
演出部員=清水弥生・福田望
文芸助手=久保志乃ぶ・圓岡めぐみ
宣伝意匠=高崎勝也
衣裳助手=桐畑理佳
協力=(有)岩渕ぐるうぷ
    高津映画装飾株式会社 (有)スチールサイト 

              株式会社センターラインアソシエイツ 東京衣裳

    山野辺雅子 高橋淳一 山松由美子 山本哲也 久寿田義晴 宮村茂雄 香取智子 

              園田佳奈・召田実子・河本三咲
制作=古元道広・近藤順子
制作助手=藤木亜耶・小池陽子・宮島千栄
コーディネート=マーティン・ネイラー
イラスト=石坂啓

提携=世田谷パブリックシアター




当日配布パンフレットより


デイヴィッド・ヘアーとの出会い

坂手洋二


 デイヴィッド・ヘアーとの出会いは1996年。ロンドンで観た『スカイライト』初演である。マイケル・ガンボンの、信じがたい奥行き のある発声法、重厚そのものだが軽妙でもある演技、相手役の女優との生き生きとしたやりとり。不在の、ガンボンの亡妻の存在が浮き立ってくる展開と、プロ ローグ・エピローグの呼応の洒脱さにも舌を巻いた。翻訳家の常田景子さんと一緒に、一番前の席でかぶりつきで観た。
 当時、我々はノッテングヒルにあるゲートシアターでの拙作『くじらの墓標』イギリス版初演の準備のため、ロンドンにいた。思えば、テアトル・ド・コンプ リシテのリロ・バウア(『ルーシー・キャブロルの三つの人生』のタイトルロールを演じた)、クライブ・メンデスらが出演する豪華キャストの公演で私はロン ドン・デビューを飾ったのだ。1998年春。初日のアフター・トークにはデヴィッド・ルヴォーが出演してくれて、サイモン・マクバーニーも初日前後の何日 か来てくれた。恵まれていた。
 『エイミィズ・ビュー』のロンドン初演も観た。「これぞロンドンのウェルメイド・プレイ」というべき作劇の妙と、ジュディ・デンチに唸った。その直後に 日本版の上演があり、幸い燐光群の大西孝洋に出演交渉があり、草笛光子さんと大西が屹立するラストシーンは、ロンドン版に劣らず見事だった。この作品の、 殊に前半最後の捻りの効いた畳み込みの見事さは、我が「ウェルメイド・プレイ」に対する偏見を払拭するにはじゅうぶんすぎるものだった。この体験がなけれ ば、私が今年、イギリスのウェルメイド・プレイの大御所たるテレンス・ラティガン作品に関わることはあり得なかっただろう。
 その後、ヘアーの自作自演一人芝居『ヴィア・ドロローサ』をブロードウェイで観て、この人はちょっとヘンな部分も持っているなと思っていたら、なんと昨 年からはロンドンでドキュメンタリー・ドラマを連打しているという。何人かの人が「これを日本でやるのは坂手だろう」と、紹介してくれた。
 これは一種の「運命」であり、たんに「ドキュメンタリー・ドラマ」として片づけるには手強すぎる『パーマネント・ウェイ』日本版を上演する幸運と苦難 を、私が受け入れるに至った入口の話に過ぎない。
 ともあれ、渡辺美佐子さんと三たびご一緒できる本作品と、次作『スタッフ・ハプンズ』の連続上演は、私にとって得難い経験となるだろう。「創作」とは 「出会いの偶然性を『必然』に組織し直すこと」と看破したのは故・寺山修司氏である。その言葉は私の座右の銘だ。しかし、ここ十年、常に私の意表を突き、 完全に予知することはできない、「偶然」を越える「創造性の魔術」を私に仕掛けてくるのが、幾つもの顔を持つ、エネルギッシュなデイヴィッド・ヘアーの存在なのである。


***


常田景子


 『パーマネント・ウェイ』は、イギリスの国鉄民営化後に起きた4件の事故の顛末を描いたものだ。この戯曲ができたきっかけは、イア ン・ジャックという文学編集者がハットフィールドの事故について書いた小さな薄い本だった。その本『ザ・クラッシュ・ザット・ストップト・ブリテン』に は、鉄道そのものの歴史に始まって、イギリス国鉄民営化の経過から、カーブで起きる線路のひび割れという技術的な問題の図解まで、コンパクトにまとめてあ る。演出家のマックス・スタッフォード=クラークは、誇るべき歴史を持つイギリスの鉄道に対するジャックの愛惜の情に深く共感し、この芝居を思いついた。 そして劇作家デイヴィッド・ヘアーに白羽の矢を立てた。
 ヘアーは、社会派の劇作家として知られているし、近年、ドキュメンタリー・ドラマに強い関心を持っていた。国鉄民営化の経過とその余波は、イギリスに とって大きな社会問題だった。事故の根底にあるのは、民営化を急いだ保守党政権が、国鉄の組織を分割し、まっとうに機能するのが困難なシステムに追いやっ てしまったことにあると思われる。だが野党時代は保守党のやり方をさんざん罵倒していた労働党も、政権の座に着いたとたんに頬かむりを決め込んでしまっ た。ヘアーは、そうした政治の堕落に強い憤りを抱いていたのだ。
 この戯曲は、ヘアーと劇団「アウト・オヴ・ジョイント」の共同作業によって生まれた。「アウト・オヴ・ジョイント」は、その独創性で知られている。ヘ アーと劇団員たちは、鉄道民営化や4件の事故の関係者にインタビューを行なった。インタビューを再現したものをヘアーが編集して、戯曲『パーマネント・ ウェイ』ができた。
 イギリスの国鉄の分割は、日本の場合と違って、線路と車両と運営を分けてしまうという方式だった。劇中でも語られているように、列車や線路などの資産 や、運行やメンテナンスなどの業務は、細かく分割されて売却された。列車と運転手は別の会社に属し、線路とメンテナンス要員は別の会社に属すことになっ た。こうしてできた鉄道関連会社の経営者の中には、旧国鉄マンもいたが、多くはホテルの経営など鉄道とは無関係な仕事をしていた人々だった。中間管理職た ちは、複雑な機構と他社との契約関係の中で、自分の責任と権限をちゃんと理解していなかった。ポイントでの赤信号見落としによるオーバーランが何度もあっ て、その信号が見えにくい位置にあることが運転手たちから報告されていたのに、何の改善もなされず大事故が起きるまで放置されていたことなどは、個人の資 質や企業の体質以前に、この分割民営化の方式が、列車を安全に運行させるという鉄道の最大の命題を果たし得ない状況を生み出してしまったからだと考えられ る。
 デイヴィッド・ヘアーは、『パーマネント・ウェイ』が海外で上演されるとは思っていなかったらしい。確かにこれはまったくイギリスの国内問題を扱った芝 居であり、私たちには分かりにくい部分が多い。だが、今日の世界は確実に「グローバル化」していて、政治に起因するこうした問題は、さまざまな国の、さま ざまな分野で、現実に進行しているのではないだろうか。


***


燐光群・坂手洋二とヴァーベイタム・シアター

谷岡健彦


 燐光群は、演出家も兼ねる座付の劇作家が主宰する劇団にしてはめずらしく、翻訳戯曲を頻繁に舞台にかけている集団である。オールビー やイヨネスコといった有名作家から、『ポッシブル・ワールド』のジョン・マイトンのように日本ではなじみの薄い作家まで、きわめて幅の広い劇作家の作品が 取り上げられている。このように翻訳戯曲を上演することについて、坂手洋二はある対談で「他者の言葉と出会える機会なので大切にしたい」と述べているが、 この「他者の言葉と出会える機会」という言葉には、たんに自分とは文体の違う作家の戯曲にふれるチャンスという意味以上のものが含まれているように思われ る。
 そこで一本、補助線を引いてみることにしよう。『ララミー・プロジェクト』『CVR チャーリー・ビクター・ロミオ』『ときはなたれて』、そして今回の 『パーマネント・ウェイ』。これらはいずれもインタヴューやリサーチをもとに構成された戯曲で、たんに他の劇作家が書いたものというのとはまた違った意味 で「他者の言葉」でつづられた作品だ。ここに翻訳劇ではないが、昨年上演された『私たちの戦争』を加えてもよい。この作品には、イラクで人質になった渡辺 修孝の著書『戦場イラクからのメール』の言葉がそのまま用いられているパートがあるのだが、終演後のロビーで坂手洋二は「他人の言葉だけで芝居を作るのは すごく難しい。自分で書いた方がどれだけ楽かわからない」とこっそり筆者に漏らしてくれた。坂手が「他者の言葉と出会える機会」と言うとき、そこにはこの 種の他者の言葉が孕む不自由さと格闘する機会という意味も込められているはずだ。
 知り合いのイギリス文学研究者から教えられたことだが、イギリスではこの『パーマネント・ウェイ』のような劇のことを、「ドキュメンタリー・ドラマ」で はなく「ヴァーベイタム・シアター」と呼ぶ方が一般的だそうだ。ヴァーベイタム(verbatim)とは「一言一句そのままの」という意味で、題材の事実 性よりもその題材を舞台化する際の手つきの方に注目した呼び名と言えるだろう。この手法を用いた秀作をいくつも手がけてきたマックス・スタッフォード=ク ラーク(『パーマネント・ウェイ』のロンドン初演時の演出家)は、リサーチで得られた言葉をできるかぎり正確に再現すること、そして、そうした真正さ自体 に固有のドラマが宿っていると信じることが、よいヴァーベイタム・シアターを作るうえで不可欠だと言っている。たしかにスタッフォード=クラークの言うと おり、インタヴューに応じてくれた人々の言葉には、通常の戯曲の台詞以上に、演出家や俳優の恣意的な改変を許さない何かが備わっている。たとえば、トラブ ルに遭遇したパイロットと管制官の交信記録をもとにして構成された『CVR』において、安易に劇的効果を高めようとして、パイロットの言葉に手を加えたり したならば、この作品の衝撃力はいっぺんに台無しになってしまうだろう。現実に口にされた言葉であるということの重み、他人が勝手に言いかえたりできない 絶対性が、この劇の言葉に真正さを付与し、ドラマを支えているのである。
 しかし、この真正さを舞台の上で表現するとなると、厄介な問題が生じてくる。ある人物の発言を他人が当人の代わりに口にするという行為自体に、真正さを 突き崩してしまう危険が胚胎しているからだ。つまり、俳優が忠実に台詞を再現して、その言葉がまるで俳優自身の言葉のように見えるようになってしまうと、 皮肉なことにそこにウソが生まれてしまう。言葉の他者性が消え、それとともに真正さも失われてしまうのだ。かと言って、最初からリアルに再現することを放 棄してしまえば、それはそれで他者の言葉を自己流に言いかえていることにしかならないだろう。したがって、俳優はよそよそしく聞こえないように台詞を語り つつも決して台詞を自分のものにしてしまわないこと、自分の存在を極力、薄くするように努めつつも、それが役になり切るという方向には向かわないこととい う困難な要求に応えねばならなくなる。今夏、イギリスで『ときはなたれて』はあえてリーディング形式で初演されたが、これは稽古期間などの実際的な理由か らというよりも、俳優が台本を持つことで言葉の他者性を観客に明示する演劇的な仕掛けだったように思う。
 さて、今回の『パーマネント・ウェイ』である。この劇の内容については多言を要しまい。イギリスの鉄道事故を主題にした本作を、燐光群・坂手洋二が、公 共サービスの民営化に対してほとんど異議申し立ての声が聞こえない日本の状況とどのように共振させてくれるのか、実に楽しみだ。そして、それと同時に、こ のずしりと重い他者の言葉と坂手洋二がどのように出会うのか、翻訳者、演出家、そして俳優たちが「一言一句の」絶対性とどう格闘するのか、その「真正さ自体に固有のドラマ」にも期待して観てみたい。


谷岡健彦(たにおか たけひこ)
東京工業大学助教授。現代イギリス演劇専攻。おもな論文に「Blasted Revisited--劇作家Sarah Kaneの登場をふり返って」(『英語青年』2005年1月号 研究社)など。おもな翻訳戯曲にサラ・ケイン『4時48分 サイコシス』(『舞台芸術』08号 月曜社)、デイヴィッド・ハロワー『雌鶏の中のナイフ』など。