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CAST

John Oglevee

Benjamin Beardsley


鴨川てんし 

川中健次郎 

猪熊恒和 

大西孝洋 

水津聡 

杉山英之 

鈴木陽介

武山尚史

小林尭志


東谷英人

今井淑未

小寺悠介

櫻井麻樹

城田将志

鈴木穣  

松田光宏

三宅克幸

山村秀勝



STAFF

照明○竹林功(龍前正夫舞台照明研究所)

音響○島猛(ステージオフィス)

美術○島次郎

衣裳○宮本宣子

振付○矢内原美邦

舞台監督○高橋淳一

演出助手○城田美樹

文芸助手○久保志乃ぶ

イラスト○三田晴代

宣伝意匠○高崎勝也

協力○浅井企画 

制作○古元道広 近藤順子

Company Staff○桐畑理佳 西川大輔 宗像祥子 清水弥生 宮島千栄 根兵さやか 橋本浩明 内海常葉 秋葉ヨリエ

 

「生きて虜囚の辱めを受けず」

  大日本帝国の兵士に、捕虜は一人もいない。

  つまりこれは亡霊の夢だ。

  じゃないと説明がつかない。

  今までこんなに穏やかで、

  楽しかった日々はないんだから。

チラシ画像8_Cowra_no_Hancho_Kaigi_files/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%80%80%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7%E7%94%BB%E5%83%8F.pdf

1944年、8月5日。

第二次世界大戦中のオーストラリア。

ニューサウスウェールズ州・カウラの連合軍捕虜収容所。

捕虜になった日本兵545名による、史上最大の脱走計画。

日本兵たちは、選挙によって選ばれた代表による「班長会議」で、計画を実行するか否かの多数決投票を行った。

戦時下、極限の選択を迫られる兵士たちの真実に、現代を生きる女性たちが迫る。

歴史から、いまを見る。

『天皇と接吻』に続いておくる、「戦争の時代」と「映画」が交錯する青春群像。

歴史と「いま・ここ」をリンクさせた作・演出の坂手洋二の手腕が鮮やか。

(中略)

テーマと手法がかみ合い、劇団の力がそれを支えて演劇的興趣を引き出す。

劇団30周年にふさわしい力作である。(読売新聞 山内則史氏)




円城寺あや 

中山マリ

松岡洋子

樋尾麻衣子

横山展子

田中結佳

福田陽子

永井里左子


石川久美子

大内慶子

勝田智子

佐次えりな

清水さと

長谷川千紗

布施千賀子 

真鍋碧

水野伽奈子

渡邊真衣

<ゲストと坂手洋二によるアフタートーク> ※10日のみ昼の部

○ 9日(土)ロジャー・パルバース

 (作家・劇作家・演出家 東京工業大学世界文明センター長)

○10日(日)オーブリー・メロー

 (ラサール芸術大学シニア・フェロー)

○11日(月)山田真美(作家)

○13日(水)中園ミホ(脚本家)

○14日(木)緒方明(映画監督・日本映画大学教授)

○19日(火)高遠菜穂子(イラク支援ボランティア)

○23日(土)すずきじゅんいち(映画監督)


■3月20 日(水・祝)終演後

清水弥生作 『My home town~私がニューヨークに行くまで~』(仮題) リーディング&トーク(清水× 坂手)

■当日配布パンフレットより■


ごあいさつ

坂手洋二


劇作家・演出家の如月小春さんが高校時代カウラに留学していたという話は漠然とは知っていた。この劇の取材のため成蹊高校カウラ会の皆さんにお会いして、というか、月に一度の現役留学生とOBとの交流会に押し掛けてお話を聞き、詳細がわかった。成蹊高校がカウラ高校との交換留学制度を設けたのが1970年、その二年後の1972年、初めてカウラに留学した女子生徒が如月さんだったのだ。市長招待によるextraだったという。やはりずばぬけて優秀だったのだ。成蹊高校カウラ会の四十周年記念の資料集は、たいへん手のかかった労作である。末尾に歴代留学生の名簿と写真があり、そこに高校時代の輝く笑顔の如月さんがいた。当時一緒に留学していたMさんのお話も聞いた。本当に如月さんは積極的だったという。亡くなられてもう十二年が過ぎたが、いろいろな局面でいきいきと行動されていた彼女の、高校時代のカウラでの姿、それは私が勝手に幻視したものだが、それがこの劇を造る時のイメージのどこかにある。

『カウラの班長会議』で描かれるのは、オーストラリア・カウラ捕虜収容所で、一一〇四名の日本兵捕虜が集団脱走を遂げ、二三四名の命が奪われた事件である。収容所跡地の近くに、彼らの墓はある。戦時中オーストラリアで死亡した日本人五二二名の墓もカウラに集められ、現在のような墓地ができたのは一九六四年一一月。私がその地を訪れたのは七年前。綺麗な芝生に、まったく同じ色のプレートが何列か並べられている場所。プレートにはアルファベットの文字と数字が刻まれていた。私はそのアルファベットが、ローマ字の日本名であること、記された数字が「5-8-1944」という、まったく同じ数列であること、そしてその「5-8-1944」が、何百と並んでいることに気づいた。不思議な場所に迷い込んだと思った。「5-8-1944」は日付けである。一九四四年八月五日。「カウラ・ブレイクアウト」で亡くなった人たちの命日である。あらためてそこが殺された者たちの墓だと認識した時、微かに聞いていた脱走事件の記憶が蘇り、頭がきーんとしてきた。高校時代の如月さんもここを訪れたはずだ。彼女は何を感じただろう。

カウラの住民や退役軍人たちは、敵兵であるにもかかわらず、自国の兵士同様に、日本兵を手厚く葬った。事件で犠牲になったオーストラリア兵たちの墓地の隣である。日本兵の墓の幾つかは、名前のないプレートであった。アンノーンソルジャーズ、身元不明の墓たちである。捕虜たちは、名前があっても偽名を通した人もいたはずなので、ひょっとしたらその遺族の方々も、彼がカウラに来たことさえ知らないということがありうる。捕虜体験者の半数以上が、妻子にすらその事実を隠していたというのである。脱走で命を落とした日本兵死者の数は、二三四名。それだけ多くの人たちがほとんど同時に命を落とすというのがどういうことなのか、その時の私には、そして今の私にも、想像はできるが真の意味では理解できていないという気がしている。その時墓地で受け取ったと感じた大きな宿題を、この劇で、ようやく果たそうとしている。

カウラ事件関係の翻訳と著作で知られる山田真美さんに貴重なお話をうかがった。大叔父に当たる方がカウラ事件の当事者であったという、ドラマ『あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった』を書かれた中園ミホさんにも、価値のある資料を多く提供していただいた。心より感謝いたします。

そして、私とオーストラリアの関係は、七年前、シドニーのNIDA(国立演劇学院)で演出し、二ヶ月滞在したことが、大きい。当時の学長オーブリー・メローさん、ロジャー・パルバースさんのおかげである。

出演者も大勢だが、これまでおそろしく多くの方々とのご縁で成立した芝居である。演劇とは、劇場とは、出会いの場であると、改めて痛感している。

あらためて皆さまに御礼申し上げます。