過去の上演作品[2011-]
過去の上演作品[2011-]
kujiranobohyo2017
くじらの墓標 2017
【東京】 3月18日(土)~31日(金) 吉祥寺シアター
17/03/18
自殺する動物は2種類しかいない。ニンゲンとクジラである。
海の胎児よ。
誰に向かって哭いているのだ。
乳濁色の潮をあんなにも高く吹きあげ、
泡立つ海面を思いきり跳躍していたのに。
……俺たちが揃うまで待て。
そしてこの銛のひと突きに、
臨終の血潮を浴びさせてくれ。
中山マリ 鴨川てんし 都築香弥子
川中健次郎 猪熊恒和 HiRO 大西孝洋
樋尾麻衣子 杉山英之 武山尚史 山村秀勝
田中結佳 宗像祥子 塩尻成花
3/18(土)はプレビュー。
全席自由・一律2500円・人数限定・劇団予約のみ扱い。
受付開始○開演の40分前 開場○開演の30分前
照明○竹林功(龍前正夫舞台照明研究所)
音響○島猛(ステージオフィス)
舞台監督○森下紀彦
美術○加藤ちか・じょん万次郎
演出助手○村野玲子
衣裳○小林巨和
文芸助手○清水弥生 久保志乃ぶ
オリジナル宣伝デザイン○遠井明巳
宣伝意匠○高崎勝也
協力○オフィス・ミヤモト
制作○古元道広 近藤順子
Company Staff○桐畑理佳 秋定史枝 大浦恵実 鈴木菜子
番匠郁 脇園ひろ美 松岡洋子 福田陽子 鈴木陽介 西川大輔
宮島千栄 橋本浩明 内海常葉 秋葉ヨリエ
提携○(公財)武蔵野文化事業団
主催○有限会社グッドフェローズ
★以下のゲストと坂手洋二によるアフタートークを実施
20日(月・祝)中根公夫(プロデューサー)
21日(火)水道橋博士(芸人・浅草キッド)
22日(水)高野己保(医療法人社団養高会 高野病院 理事長)
23日(木)小島曠太郎(文筆家・ラマレラ捕鯨文化研究家)
中根公夫(なかね ただお)
1938年生まれ。学習院大学仏文科卒業後1962年東宝に入社、菊田一夫に師事。1963年、文部省派遣フランス政府給費留学生としてパリ国際演劇大学に留学、パリ国立オペラ座等で3年間研修を経て、東宝に復職。1971年よりプロデューサーとして100本以上の演劇を製作。
1974年、蜷川幸雄を東宝に招き日生劇場で『ロミオとジュリエット』を上演、『王女メディア』『近松心中物語』『NINAGAWA・マクベス』はじめ東宝での蜷川演出全作品を製作。1983年には、『王女メディア』のギリシャ公演を実現し、以後10年間にわたり毎年蜷川作品の海外公演を実施し、“世界のNINAGAWA”の名を確立していった。
1987年には、蜷川作品の海外公演を製作するため、ポイント東京株式会社を設立し、取締役社長となり、蜷川作品ほか多数の演劇作品をプロデュース。(~1994年までは東宝在籍のまま) 傍ら国際舞台芸術交流センター(現NPO法人)を設立し、舞台芸術見本市事務局長、国際演劇協会日本センター理事などを歴任。2005年以降は引退。
水道橋博士(すいどうばし はかせ)
1962年8月18日生まれ、岡山県倉敷市出身。
86年にビートたけしに弟子入り、翌年、玉袋筋太郎とともにお笑いコンビ「浅草キッド」を結成。
テレビやラジオ、漫才を中心に活躍する一方、ライターとしてもコラムやエッセイを執筆する。
主な著書に『藝人春秋』『博士の異常な健康』、最新刊は『はかせのはなし』。
自身が編集長を務める日本最大級のメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』好評配信中。
主な出演番組に『あさイチ』『総合診療医ドクターG』(NHK)、『バラいろダンディ』(TOKYO MX)等。
小島曠太郎(こじま こうたろう)
文筆家・ラマレラ捕鯨文化研究者。沖縄県在住。1993年より毎年2回インドネシア、レンバタ島のラマレラ村に通い、木造帆船と手投げ銛でマッコウクジラを獲る伝統捕鯨と、クジラ肉などの物々交換経済システムによる山の民と共生関係を「ラマレラ捕鯨文化」と捉え、江上と共同で調査・研究をしている。1997年『クジラと少年の海』(理論社)で産経児童出版文化賞推薦受賞。1999年『クジラと生きる』(共著、中公新書)、2001~2004年ラマレラ・生命の物語三部作『クジラがとれた日』ほか(共著、ポプラ社)、2012年『捕鯨の文化人類学』(共著、成山堂書店)など。
24年間で捕獲を体験したマッコウクジラは72頭、2000年5月には燐光群『南洋くじら部隊』公演に向けた取材で坂手洋二氏ほかメンバーとラマレラ村を訪れてクジラ2頭を捕獲し、村人たちと幸福を分かち合った。ラマレラ訪問30年を目標に研究活動を継続中。
高野己保(たかの みお)
佛教大学社会学部社会福祉学科卒業。社会福祉士・精神保健福祉士。父親である医療法人社団養高会(いりょうほうじんしゃだんようこうかい)理事長が院長を勤める高野病院の事務長に、2008年4月に就任。
病院の立地町は、2011年3月の東日本大震災時にともなう東京電力原子力発電所事故により一時屋内退避区域となった。それにより町は行政機能を、県内の他の地域に移し、町には患者さん107名と十数名のスタッフのみが残ることになった。治療に専念する院長に代わり、外部との折衝等すべてを行い、双葉郡で唯一病院を閉鎖することなく、現在も診療・入院機能を継続している。
原発事故により一時閉鎖した、隣接する特別養護老人ホーム花ぶさ苑を再開するために尽力。2012年4月に再開し、施設長を2014年10月まで兼任する。2014年3月には当時の様子からその後の出来事が記録された「高野病院奮戦記 がんばってるねじむちょー」が東京新聞出版部から出版された。
2016年11月法人の理事長に就任。
2016年12月30日、前理事長であり病院の院長であった、父高野英男が不慮の事故で亡くなってからも、コミュニティが失われた地域にあって、必要とされる地域の医療と福祉を死守すべく日々奮闘している。