過去の上演作品[2001-2005]

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フィリピンひとりぼっち

男+女の物語


"TAONG GRASA"(ヤニオトコ) written by ANTON JUAN(アントン・ファン)
"USAPANG BABAE"(三人のマリア) written by CHRIS B. MILLADO(クリス・B・ミラド)
演出=吉田智久 訳=桑山沙衣子 上演台本・芸術監督=坂手洋二


<東京>2005年5月10日(火)〜 15日(日) 梅ヶ丘BOX

 

05/05/10

路地裏の男が自らの肉体を賭け格闘する相手とは?

追いつめられた女たちの孤独な輪舞……。

あなたはこの街で一人で生きてゆけますか?


2004年『フィリピン ベッドタイム ストーリーズ』に続く 燐光群<フィリピン現代戯曲上演シリーズ>第2弾!

CAST


"TAONG GRASA"(ヤニオトコ)
 鴨川てんし …… 男
 
"USAPANG BABAE"(三人のマリア)
 江口敦子 ……… 女1(マリア・エレナ=エレイン)仮面1/近所の女1
 樋尾麻衣子 …… 女2(マリア・パトリシア=トリクシァ)/近所の女たち
 小金井篤 ……… 女2(マリア・パトリシア=トリクシァ)/近所の女2
 内海常葉 ……… ディレクター
 工藤清美 ……… 仮面2/近所の女たち
 宇賀神範子 …… 女3(マリア・フリアニタ=イタン)
 瀧口修央 ……… 警官/ランド
 桐畑理佳 ……… 近所の女たち



STAFF


照明=竹林功(龍前正夫舞台照明研究所)
音響=島猛(ステージオフィス)
美術=じょん万次郎
大道具=  優宇
衣裳=樋尾麻衣子・桐畑理佳
文芸助手=圓岡めぐみ・久保志乃ぶ・寺島友理子
演出助手=清水弥生
照明操作=向井孝成
音響操作=内海常葉・塚田菜津子
制作=古元道広・近藤順子
Company Staff=中山マリ 川中健次郎 猪熊恒和 大西孝洋 下総源太朗 宮島千栄 杉山英之 久保島隆 
協力=高津映画装飾株式会社
   小池陽子 椙本貴子 園田佳奈 高本愛子 西澤あゆみ 福田望 藤木亜耶 

           宮島久美 八代名菜子 

Special Thanks to Rody Vera, Mailes Kanapi, Gie Onida, Teatro Kanto


平成17年度文化庁芸術団体重点支援事業 
東京都芸術文化発信事業助成




当日配布パンフレットより


吉田智久


 "TAONG GARASA"は1982年、"USAPANG BABAE"は1990年に書かれた戯曲だそうだ。
 しかしながら、読んでみると現代フィリピン社会に向けて書かれたものであるように思えてくる。もっとも私の知る現代フィリピン社会というのは、'99年 からの4度の渡航、延べ1年半の滞在経験にすぎないのだが……。
 貧困・セックス・暴力といった作品に描かれているテーマは普遍的なものではある。故に執筆後15〜20年弱経過した現代フィリピン社会にも当てはまる、 と片づけてよいのか? いや20年弱変わらない社会矛盾をフィリピンは抱えているのではないだろうか。どうやら深刻な問題があるのだろう……。
 しかし戯曲のタッチはいたって深刻ではない。いかがわしさの中で生き生きとした人々が笑っているではないか! なにやら掴みきれない世界との出会いに期 待がふくらんだ。しかし、フィリピン人アーティストとの共同製作ではなくタガログ戯曲に挑むのは想像以上に困難であった。作家のアントン、クリス両氏とも 面識がない。彼らの描いたフィリピンに出会えるだろうか? 
 不安に包まれてもいるが、ここで今一度決意する。作品に登場する空腹男のようにいかがわしい世界を飲み込んでやろうと!
 いや、その世界に飲み込まれてやろうと! かな?


***


坂手洋二


 この一ヶ月間ほとんど東京におらず、私自身の関わり方としては、あまりたいしたことはできないなあ と思っていたが、結局、想像以上の仕事量になってしまった。
 台本のリライトについては、タガログ語をもとにしたこの戯曲たちのヘソのようなモノが見えにくく、また、英語のように辞書を見ながら原本に当たるという こともできなかった。日本語版に関しては、例外的に付け加えた部分を除けば、なるべく原本そのままであろうとしたが、逆にそうとうの「意訳」(「超訳」と もいえるが)になっているのかもしれない。演出家や俳優が「ものすごくわかりやすくなった」と言ってくれるのだから、違和感なく受け入れられているのだろ うとは思うのだが……。
 モノローグの部分は一種の「質感の統一」を果たして行く過程で、いろいろ帳尻を合わせることもできたが、会話部分については、「創作」になってしまうこ とを避けたぶん、あまり仕事ができていない。もちろん、社会の様子を伝えるにせよ、演劇の状況を紹介するにせよ、「フィリピンの現状を丸ごと示す」という 意味では、それでいいのだとも思っている。
 美術を担当する「じょん万次郎」としては、実はこのアトリエでいつかやりたいと思っていた、とっておきの手法を導入した。この劇にフィットしてたいへん 嬉しいというより、豊かな可能性を持った戯曲の御陰でこのスタイルが実現できたのだと思っている。
 吉田智久君の演出も二本目となり、さらに新しいテーマ・課題に挑んでいる。ディレクションという仕事には、状況から導き出される「必然」からの決定だけ ではなく、それ以前の時点から、自分で選択しなければならない範疇がある。そこを妙に先回りしてもいけないし、待っているばかりでも仕方がない。言い換え るならば、表現には、意識的な部分と、無意識領域と格闘しなければならないややこしい部分とがあるはずだが、今回はその双方共に自覚的になることが要求さ れている。
 初の一人芝居に挑む鴨川てんしのみならず、参加する俳優たちの主体性も問われている。 
 チームの可能性が試されるこの公演で、さまざまに新鮮な発見が期待されている。楽しんで頂ければ幸いである。

***


タオングラッサ ー 胃袋の歴史


私が『タオングラッサ』を書く前には、タガログ語の中に、タオングラッサという言葉が存在しなかっ た。だから、浮浪者のことをなんと呼ぶべきかと考えながら短いプロローグを書いた。フィリピンにおいて、経済危機が起こる前にはタオングラッサは存在しな かったからだ。そう、人々は村の阿呆の世話をし、食事を与え、彼らが村の歴史の一部分であるかのように一緒に笑ってあげていた。結局、どの村にも阿呆はい たものだった。しかし、私がこの作品を書き始めたとき、アスファルトのように油、煙、泥、そして貧困によって真っ黒に汚れた人々がどんどん増え始めた。

1971年にフィリピンで戒厳令がひかれた頃、私は21歳になろうとしていた。17歳の時から考えて いたことだったが、私は演劇と人文学を教える仕事を自分の一生の仕事にすることに決めた。劇作家兼演出家として、私は、演劇とは社会の周辺にある、人々が あまりよく知らず、語られることのない歴史や願望に焦点を当てるべきだと考えていた。演劇は、観客を客席でほっとさせることを目的としているのではなく、 観客を不安にし、心を乱すような状態にすることを目的としている。そのことによって、私たちは生と死、そして欲望についての皮肉的な葛藤を知ることとな り、逆説的に自分自身を笑うようになる。これは、エウリピデスが言ったところの「自分で痛みを感じる」という行為だ。

フィリピンの戦後の経済には、戦争を乗り越えてはい上がっていくエネルギーがあった。私は、当時ペソ とドルの比率が1対1だった頃のことを覚えている。そして、2対5、そして…というように変化していった。フィリピンはアメリカの植民地であったために戦 争に巻き込まれてしまい、それは耐え難いことであった。マニラは爆撃を受けたので、古くてエレガントなヨーロッパ風の建物は全て破壊された。破壊された オールド・マニラを復旧しようとしても、そこには古いドーム屋根の教会しか残っておらず、街全体を元の状態に戻すのにはほど遠い状態であった。結果とし て、地方からの移民がこの新生・経済都市であるマニラに流れ込み、彼らがマニラに住み着くようになった。人口はものすごい数に増えた。結果として、産業界 は労働力をもてあますようになり、職にあぶれた人間はホームレスとなった。心理的にも孤独な状態に置かれたのだった。

私にとって、『タオングラッサ』は、'20年代、'30年代のハリウッドの影響を受けて育った、演劇 の一種である古いヴォードビルのピエロだ。だから、私はタオングラッサに、笑いがどのようにして、街が死にゆくような悲しみに変化していくかという警鐘を 鳴らしてもらいたかったのだ。しかし、ピエロは生き延びた。窓の外を通り過ぎる人々の数と、歩数、魚の背骨を数えながら、列車の車両を数えるように、時を 数えた。彼は、街の胃袋を通して、自分の胃袋に語りかける。そうすることによって、一人の歴史の伝達者となるのだ。今や、ぶら下がる吊るし窓のように、女 性は自分のセクシャリティにしがみついている。日本からのフィリピンへの買春ツアーが大きな問題となったことがあった。タオングラッサはモノローグの中 で、ジュークボックスに向かって感傷的なラブソングを歌っている娼婦を見かけるが、彼女は失恋と、失った時間によってつぶされてしまっている。そういった 問題が続くなか、何にも気づかずに眠っている人々がいる。そしてタオングラッサは何が起こっているかを知っているのだが、彼らが眠っている間になぜこれら のことが起こったのかを告げることはない。タオングラッサは他の人が眠っている時に目を覚ましている。そして、心情として、彼らが自ら目覚め、なぜ歴史が このように破滅していったのかを自分で理解してもらいたいと思っている。彼は言う。「その理由を私が口で告げることはない」と。

いまや、タオングラッサという言葉がフィリピンの辞書の中に存在している。これは、演劇によって言葉 が創造されるという一つの例だ。この演劇を書くことは辛いことだった。『タオングラッサ』は私の初めての作品であり、これから私が書いていく全ての作品の 中に登場することになるだろう。

私は、この現代フィリピンの演劇を上演するという燐光群の努力に感謝したい。フィリピンの演劇の中に は、幅広い歴史と、私たちの国が経験してきた痛みについて語る作品が他にもある。私は、この場を借りて、数年前に私を日本に導き、大野一雄氏と能の北学派 について学ばせてくれた日立ファウンデーションにもお礼を言わせていただきたく思う。

私は世界中、どこにでもタオングラッサがいるということを知っている。ますます物質的になっていく残 酷な社会において、彼はいつもそこに存在する。そして私たちに警鐘を鳴らす。私たちはみな、彼の胃袋なのだと言えよう。


アントン・ファン
"Taong Grasa" 脚本家


TAONG GRASA: HISTORY FROM THE INTESTINES
Playwright's Notes by ANTON JUAN, Ph.D.

Before this play, "Taong Grasa" was written, there was no word in the Philippine language that referred to them. This is why I write a short prologue asking what is it to call them. This is because before the onslaught of economic crises in the Philippines, there was no phenomenon like the  "Taong Grasa." Yes, there were village fools whom the folk took care of, gave food to, laughed with as though they were part of the village's history; after all, every village has a fool. But no, when I began this play, more and more of the soot people, asphalt people, persons whose skins were black from grease and smoke and mud and poverty.

After the declaration of martial law in 1971 in the Philippines, I was turning twenty-one. I decided to get a job teaching theatre and humanities which I had decided since 17 years old was going to be my life. As a playwright-director, I believe that theatre should signal history and the aspirations of the marginalized parts of society, the unfamiliar, the unspoken. Theatre does not aim to make the audience settle in the theatre seat, it aims to unsettle, to disturb, to make us know more about living and dying and the struggle between, the comic ironies about our desires so we can, in turn, laugh at ourselves, and in order, as Euripedes said, "to make us feel pain." 

The economy of post-war Philippines had an energy to rise above the war. I remember then the peso to the dollar was one is to one, then two then five then The Philippines was thrown into the war because of its being a colony of America was devastating. Manila was bombed so the old elegant European buildings were all torn down, and the reparations for the total devastation of the old Manila where nothing remained except the dome of a church- were not enough to build back the entire city. As a result of this and the migrations of provincial people into the only viable economic city, Manila, slums started to settle in Manila, and the population grew to an enormous mass of people. As a result of this, the industrial economy could not accommodate enough employees, many became homeless, and psychologically, alienated.

I chose the "Taong Grasa" to be a clown in the old vaudeville variety theatre of the Philippines that grew as a result of Hollywood in the twenties and thirties. This is because I wanted him to signal how the laughter tutns to bitterness the way the city dies. But the clown survives, counting the steps, counting the spines, counting the people at windows, counting time, like tracks of a train. He walks through the intestines of a city, and talks to us through talking to his intestines, and in doing so becomes its historian. The windows are now hanging, the people hang by the teeth on busses, the women hang to life with their sexuality. There was a big scandal about sex tours to the Philippines from Japan, and in one part of the monologue, he sees a prostitute singing to the Jukebox a sentimental love song eaten up by lost loves and lost time. And while all of these problems continue, there are those who sleep, unaware, unknowing and only the Taong Grasa will know, and he will not tell them why all of these happened to them while they slept. The Taong Grasa is awake while the uncaring sleep. And ideologically, he wants them to wake up and know why all of these ruptures of history have happened. Because, as he says, "I will not tell you why."
There is now a word for them in the Filipino language. This is one instance where language is formed by the theatre. I pained writing this play. It was my first child. And for always, I know the image of the Taong Grasa will follow me, appear on the pages of every play I will write.

I would like to thank the Rinkogun theatre for their efforts in producing contemporary Philippine plays. There are other Philippine plays that also speak about the wide range of history and pain our country has gone through. I also would like to take this chance to thank once again the Hitachi Foundation for bringing me to Japan years ago to study with Kazuo Ohno and the Kita school of Noh.

I know that everywhere in the world there is a Taong Grasa, Where there are cruel societies that become more and more materialistic, he will always be there, signalling to us. He speaks to us. We are his intestines.


アントン・ファン プロフィール
演出家、劇作家、映画監督、振付家。演劇・比較文学・美術史の教授でもある。高等学校時代にDulaang Sibol(Spring Theatre)で初演出。これまでの作品数は200を越える。フィリピン大学で比較文学の芸術学士号、アテネ大学で記号論の哲学博士号を取得。古典から 前衛的な作品、劇場での公演からストリートシアター、工場での5分のショートピースから刑務所での教育的な演劇の演出まで、幅広い演劇活動を行っている。
今回の"Taong Grasa" (パランカ文学賞)をはじめ、"Tuko! Tuko"(アレクサンダーオナシス演劇国際賞 劇作部門)、"The Price of Redemption"(フィリピン共和国文学賞 演劇部門)、"Death in the Form of a Rose"(パランカ賞と批評家金賞)など代表作多数。フィリピンの実験映画においても、Eagle First Prize を受賞。2001年にはフランスのKnighthood of the Order of National Meritを授与されている。現在は、Dulaang U.P. Theatre company の芸術監督を務めている


***


"Usapang Babae" の戯曲のアイデアは、都市部の貧困地域に住む女性たちによるグループとの対話から生まれました。そのグループは地域の女性たちがドメスティック・バイオレ ンスに立ち向かう手助けをしています。この戯曲は10年以上前に書いたものにもかかわらず、女性を取り巻く状況はそれからほとんど変わっていません。フィ リピンでは、いまもニュースで家庭内暴力の生存者(サバイバー)の映像が流され続けています。
つまり、わたしたちは、男性・女性に関わらず、女性の権利の代弁者であり続けなくてはならないのです。日本のように高度に発展した社会でも似たような事態 が起こっているのは驚くべきことです。
この"Usapang Babae" の日本での上演が、こうしたことを話し合うための機会になることを願います。


クリス・B・ミラド
"Usapang Babae" 脚本家


The idea for the play "Usapang Babae" came from an interaction with a group of women from the urban poor who were helping other women in their community stand up against domestic violence. Although the play was written more than ten years ago, the condition of women has hardly changed. In the Philippines, we continue to see images of survivors of domestic abuse in the news - a sign that we should continue to advocate for women's rights whether we're male or female. One wonders if a highly developed society like Japan, if similar situations happen? This Japan production of "Usapang Babae" is an opportunity for dialogue.

CHRIS B. MILLADO
Playwright "Usapang Babae"


クリス・B・ミラド プロフィール
演出家、劇作家。フィリピン文化センターの芸術助監督。フィリピン大学の舞台芸術課程で学士号をとり、フルブライト奨学金を得てニューヨーク大学の Tisch School of the Artsでパフォーマンス学についての修士号を取得。1989年から1991年までthe PETA Kalinangan Ensemble(ペタ・カリナンガン・アンサンブル)の芸術監督を務めた。Tanghalang Pilipino(タンハラン・フィリピノ)の芸術助監督を歴任。また、ロックフェラー財団の支援を2回受け、イタリアのベラージオに滞在したこともあ る。演出・劇作作品に、フィリピンバレエ団の"Darna"、タンハラン・フィリピノの"Insiang"、ペタのための"Balete"、ニューヨーク のメイ-アイ シアターの"Lil Brown Brothers"、ハワイのケネディ・シアターの"Nikimalika"、カリワットのヨーロッパツアーのための"The Water Drummers"など多数。