過去の上演作品[2001-2005]

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Once upon a time in Kyoto

 

燐光群+グッドフェローズ プロデュース

ワンス・アポン・ア・タイム・イン京都

錦小路の素浪人

作・演出 = 鐘下辰男

芸術監督 = 坂手洋二


<東京>3月6日(水)~17日(日) 下北沢ザ・スズナリ

02/03/06

追われる者なら誰でも匿う、京の無法地帯「錦小路」。
ここでは誰もが、自分以外の何かになろうとする。

新撰組と公儀転覆をはかる素浪人衆の、知られざる死闘!
……歴史と現在の<闇>を抉る鐘下辰男の群像劇、
ギラギラとまばゆきその<青春の原点>がここにある!

CAST

結城敬助…………下総源太朗
松田………………大西孝洋
大石鍬次郎………猪熊恒和
葵誠一郎…………千田ひろし
木村源蔵…………向井孝成
徳次郎……………丸岡祥宏
女…………………宮島千栄


STAFF

美術   加藤ちか
照明   ベルント・エルブス
音響   島猛(ステージオフィス)
舞台監督 森下紀彦
殺陣指導 佐藤正行
衣裳   大野典子
演出助手 香取智子
進行助手 古崎篤
舞台助手 吉田智久・内海常葉
文芸助手 久保志乃ぶ
衣裳助手 桐畑りか
照明協力 龍前正夫舞台照明研究所
宣伝意匠 プリグラフィックス
イラストレーション 川名潤
舞台写真 大原拓 
Company Staff 中山マリ 川中健次郎 江口敦子 樋尾麻衣子 宇賀神範子 
           瀧口修央 工藤清美 ペ優宇 小室紀子 高野旺子
制作   古元道広 国光千世
制作助手 寺島友理子 高橋紀江
協力   オフィス コットーネ C-COM 高津映画装飾株式会社 
     オサフネ製作所 U-MAX 黒テント 現代座会館
     上村利幸 海老澤栄 高橋淳一 橋本加奈子 山松由美子 山本哲也

                  小沢直 桐田智子


アーツプラン21 芸術創造特別支援事業




当日配布パンフレットより


志士としての同郷人、鈴木宗男

鐘下 辰男


 巷は今、鈴木宗男議員の話題で持ちきりである。昨日外務省による内部調査が発表され彼の立場はより一層微妙なものとなってきたようだ。声高な女性議員がいくらか揶揄をこめて彼を「アワレ」と言ったのはもう一週間くらい前になろうかと思われるが、この騒ぎが持ち

上がる以前、つまり田中前外相就任時から時折話題の人となっていた彼を、私も心のどこかで哀れんでいたように思う。もちろんあの女性議員のように声高にではなくだ。
 北海道の道東地区に農産物の生産で有名な十勝という地域がある。中央から南部にかけて大平野が展開し北部には大雪山国立公園を抱える日本有数の畑作地帯だ。帯広市を中心に所謂郡部といわれる町村がいくつか回りを囲んでいるわけだが、その中の一つに私の故郷鹿追町がある。十勝管内でも北部に位置し、土地の肥沃度としては南部のような良好さはない。人口約六千人、これといった産業などもちろんなく、文字通り人々が細々と土と共に生活を営む典型的な北海道の一寒村である。その鹿追町よりも奥、北部十勝地方のはずれに鈴木宗男議員の生地足寄町がある。例の品のないフォーク擬きの歌手が出た所として一時期有名になった所だ。つまり私は、かの鈴木議員と同郷といっていい同じ環境で生まれ育っている。有名な馬一頭伝説だが、嘘か本当かは別にしてああした話がリアリティを持つ土地柄であったのは確かだし、あれを美談と賞賛する類の大人たちがその大半を占める郷里であった。要するに様々な意味で貧しい土地だったわけである。彼の声をテレビで聞くたび私はある光景を浮かべてしまう。それは子どもの頃、家の暗い片隅に位置していたくみ取り式便所だ。黄色い汚れた小玉電球に照らされた、その暗い排泄口の奥に白くうごめく幾千匹のウジたちの姿である。子どもの頃、あの場所は私にとって貧しさの象徴だった。やがて私が小学校の高学年あたりから農村は一変しはじめる。道路が整備され機械化が促進され、次々と新築の家が建ち並び農村から貧しさの匂いが消え始めた。その立て役者が、鈴木氏が長年秘書を務めた故中川一郎氏だ。排泄場所はくみ取り式の便所から水洗のトイレへと変貌した。しかしいくら水洗で視界から遠ざけたとは言っても排泄物は排泄物である。そのどこにも流れることなくたまりにたまった排泄物がふたたび一気に表出しはじめた因果めいたものに、私の鈴木宗男氏に対する「哀れ」の根本がある。鈴木宗男氏だけではない、北海道の貧しき寒村にである。「東京の大学に行きたい」と鈴木氏に熱望させた貧しさ、今回の国会紛糾のシナリオは、彼がそう思った瞬間から結末はできあがっていたのかもしれない。
 幕末の志士などと言うと実に響きのいい印象があるが、その多くは鈴木氏のような「貧しい」若者たちだったはずだ。一〇年ぶりにこの『錦小路の素浪人』を他劇団で再演することになり、こうして私は久しぶりに青臭い二〇代後半だった自分とつき合うことになったわけだが、これが一連の「国会劇」を見た上での今の私の所感である。


***


上演にあたって

坂手洋二


 鐘下辰男さんの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・京都 錦小路の素浪人』初演は、もう十年前になるという。新撰組の時代を描く彼のシリーズは他にも観たが、私はこの作品が一番だと思った。
 今でこそタランティーノの映画『レザボアドッグス』に似ているなどと思うが、『錦小路の素浪人』はそれ以前かほぼ同時のものである。世界的な同時多発性(シンクロニシティ)の産物であるのかもしれない。『レザボアドッグス』の面々が一つの倉庫に閉じこめられていたように、この劇の人物たちも、錦小路にある武家屋敷に、自分の力だけではどうにも変えようのない現実の状況に、閉じこめられていたのだ。
 鐘下作品の特徴は、人間の存在を突き詰めようとする一種の閉塞感であり、その密度は最近とみに増してきているような気がする。この劇にもその基調はあるが、印象としては、じつに爽快な作品であった。人物どうしのぶつかりあいの切れ味、のびのびとした殺陣、濁りのないエネルギーの発露が魅力だった。人間の心の闇を見つめる一方で、鐘下さんにはどこかあっけらかんとしたシンプルな持ち味があり、この作品にはそれが鮮やかに表出していたのだろう。
 新撰組を描き、アクションを手がける作品は他の人も作っていたが、比べ物にならない。その理由は、鐘下作品のシンプルな構築を実現する「腕力」によるものであり、その腕力の度合いは、創作における「意志」の強さに比例していたのではないかと思う。
 リアン・イングルスルード構成・演出による『白鯨』に続いて、劇団外の創造者を招いての舞台づくりとなる。「劇団」を中心に活動してきた日本の現代演劇が大きく変容しようとしている昨今、「劇団」という「場」でしか実現できない新たな可能性を提示し、演劇に向かう「意志」の確かな手応えを残せればと思っている。