過去の上演作品[2001-2005]

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MOBY DICK

 

白鯨

原作=ハーマン・メルヴィル

構成・演出=リアン・イングルスルード

芸術監督=坂手洋二


<東京>2001年11月29日(木)〜12月9日(日) 下北沢ザ・スズナリ

<尼崎>2001年12月13日(木)・14日(金) ピッコロシアター 大ホール[ピッコロシアター鑑賞劇場]

 

01/11/29

cast>

イシュメール/千田ひろし 

スターバック/猪熊恒和 

スタッブ/内海常葉 

フラスク/吉田智久
クィークェッグ/桐畑理佳 

タシュテゴ/宮島千栄 

ダグー/宇賀神範子 

フェダラー/相澤明子
大工/古崎篤 

バルキントン/瀧口修央 

パース/ペ優宇 

フリース/向井孝成 

ピップ/樋尾麻衣子
男/川中健次郎 

女/中山マリ 

少年/丸岡祥宏 

エイハブ船長/錦部高寿


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美術/加藤ちか 

照明/竹林功(龍前正夫舞台照明研究所) 

音響操作/江口敦子 

音響協力/ステージオフィス 

舞台監督/海老澤栄 

演出助手/香取智子 

文芸助手/久保志乃ぶ 

進行助手/工藤清美 

衣裳助手/大野典子 

イラスト/山田賢一 

宣伝意匠/高崎勝也 

宣伝協力/上田郁子 

CompanyStaff/下総源太朗 大西孝洋 高野旺子 尾形可耶子 小室紀子 

制作/古元道広 国光千世 

制作助手/寺島由理子 森川万里 

協力/キラ・オフィス C-COM




当日配布パンフレットより


出航を待つ皆様へ
坂手洋二


 『白鯨』には、二人の中心人物がいる。語り部の青年イシュメールと、途中から物語そのものを載せて進む捕鯨船ピークォッド号のエイハブ船長である。 
 イシュメールは作者メルヴィルの存在を越えて、この、書物に姿を借りた「装置」を司る、潜在意識そのものである。表層のストーリー上に露出するときだけ、彼はイシュメールという特定の人物の仮面を装着しているが、この本の多くを占めるエッセイ・論説部分に於いては、読者はその仮面の内側に拉致されるため、その存在が隠蔽されていることにすら気づかない。
 ピークォッド号という能舞台に姿を現すエイハブが後シテであるならば、イシュメールはワキであると同時に前シテであるともいえる。ここでは、主観と客観が、甚だしく混濁している。
 イシュメールとエイハブは、ほとんど接触しない。二人は、見事に「関係」していない。エイハブが、イシュメールの「影」であり「背中」であることの証左である。あるいはイシュメールこそが、エイハブの失われた左脚なのだ。
 人間は誰でも、いっけん極端に違うこの二人それぞれの要素を持っているのではないかと思う。おそらくメルヴィル自身もそうだったのではないか。
 だが、イシュメールとエイハブは、ジキルとハイドではない。ムイシュキン公爵とラゴージンでもない。赤ひげ先生とその弟子でもない。
 海面に晒した巨体を遠視されているクジラの容姿、その映像と、彼のアブラの詰まった脳に繰り返し共鳴している意識との関係のように、無関係だが同一の存在に依拠するものであり、あるいは、絶縁されながら同居している。
 私のこうした感想は、『白鯨』という書物から得たものであるともいえるが、アラスカで上演されたリアン演出の舞台『白鯨』の示唆によって導かれたともいえる。
 ある意味で、エイハブとイシュメールの関係は、メルヴィルとリアンの相対する構図そのものである。
 私たちはこのダイナミックな装置に乗せられて、日本ではまだ誰も体験したことのない航海に旅立つのだ。
 リアン版『白鯨』のもう一つの特徴は、イシュメールの分身であるかもしれない、あらゆる出自の乗組員たちの姿を克明に、それぞれの主観を通して描くところだ。
 その意志を「異文化の出会い」に向かうものであると読み解くのは容易だが、じつはその手法の裏面には「演劇とは何か」という、リアンの深い問いかけが秘められている。そしてその思索は、決してエイハブの知ることのない、イシュメールの内面の葛藤に似ている。


***


Director's note
Leon Ingulsrud


 最近読んだ新聞記事の中に、「『白鯨』はアメリカ文化のロールシャッハ・テストである」とありました。なぜならば、何が見えるかは見る人によって違うからだ、というのです。この秋のテロ事件に対しても、アメリカ人の中にはエイハブ船長をテロリストに例える人もいれば、ブッシュ大統領に例える人もいました。この現象は「白鯨」がアメリカ文化の神話だということを証明していると言えるでしょう。メルヴィルは、ヨーロッパ文化やキリスト教の強い影響から離れたところの、精神的に独立しているアメリカの神話を描いているのです。
 原作の「白鯨」は、単純な筋と複雑な構造を結合させています。捕鯨という冒険にでかけるイシュメールが、自分を片足にした巨大な白い抹香鯨を追っているエイハブ船長の指揮する船に乗り組み、その敵討ちにお伴する……。この単純な骨組みを軸にしてメルヴィルは、いろいろな哲学やメタフィジカルな探検、そして物語上には関係ない科学的な文章を盛り込んでいるのです。そこで私はこの作品を舞台化するために、彼に倣って、筋とともに、この間口の広い、盛り沢山なアプローチの手法そのものをとり入れました。
 「白鯨」をそのまま舞台作品にするのは到底無理な話です。私は、それが不可能だと思うからこそ「白鯨」をライフワークの一つにしています。今回の日本版に先だって、アメリカ二ケ所でも異なる二つのヴァージョンを上演しました。
 日本で生まれ育ったアメリカ人として、アメリカと日本との複雑な関係は、自分の生活の中に折り込まれている現実です。ゆえに、アメリカの本質に迫る「白鯨」をここ日本で上演することは、当然の欲望でした。小説「白鯨」のなかでも、日本は重要な場所です。
 私が身近に感じている日本を、メルヴィルはとてもエクゾチックなところとして捉えていました。ピークォッド号のマストは日本の木で作られていますし、エイハブ船長の足がモービーディックにかじりとられるのも、アメリカ捕鯨にとって重要だった日本沖漁場となっています。石油の精製技術がまだ進んでいなかった百五十年前のアメリカにとって、油を海から引き出す捕鯨は重要な産業でした。ペリーの黒船が日本に来たのも、大平洋にアメリカの捕鯨船のための港を増やそうという狙いが大きかったのです。
 「白鯨」という作品は、アメリカを讃えているわけではありません。が、シェイクスピアの人物に匹敵できるエイハブ船長を、のそのそと世界に送り出した青年メルヴィルは、若き合衆国の文化的可能性を示しています。彼が提示した、多民族・多宗教であるアメリカの理想的な姿の比喩となるピークォッド号は、地球というもう一つの共同体の比喩でもあります。

君もいつか知る時が来る。

海には、この世界でいちばん熱い血が流れている。


「私はメルヴィルという存在に対して、特別な感情を持っている。『白鯨』は、アメリカの『神話』そのものである。私はここに描かれる『文化の衝突』に、興味をそそられる」
いまニューヨークで最も先鋭的な劇団「SITI カンパニー」の演出家、リアン・イングルス ルード。
彼のライフ・ワーク『白鯨』が始動! 
絶賛を浴びたヴァージニア版、アラスカ 版 に続いて、待望の日本版が、『くじらの墓標』『南洋くじら部隊』を産んだ「燐光群・グッドフェローズ」によって、実現。


……あなたは見るだろう。海を越えた情熱と友情の結晶を。