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国吉朋子…………中山マリ

仲村秀喜…………大西孝洋

屋良直…………千田ひろし

久貝孝子…………高野旺子

神山文枝………樋尾麻衣子

新川葉月…………江口敦子

城間耕一…………丸岡祥宏

与那嶺常政………加地竜也

田端良顕………川中健次郎

平安年男…………岸田修治

下地末子…………黒田明美

砂川真栄…………吉田智久

松田………………柿澤宏子

佐久川……………桐畑りか

平良清信…………山田勝紀

伊佐寛徳…………森田和伸

与奈嶺香織……有村真奈美


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舞台美術/加藤ちか 

照明/竹林功 

音響/島猛(ステージオフィス) 

舞台監督/村松明彦+ZEST

衣裳/梶山知子 

衣裳協力/木下祐子 

演出助手/深井一雄・阿部真里子 

チラシ写真撮影/石川真生(写真家) 

宣伝写真/梅原渉 

宣伝意匠/遠井明巳 

照明協力/龍前正夫舞台照明研究所 

美術協力/山上ルミ 

Additional Member/下総源太朗・猪熊恒和・久保志乃ぶ 

制作/古元道広・上田郁子・長嶋美少子 

協力/玉城一石 玉城流康子琉舞の会・金城康子琉舞道場 C-COM 高津映画装飾株式会社 ジョイント 大城牛乳 日本テトラパック株式会社 東憲司 大和良子 桑田康司 山下貴子 大杉美樹 石井美佐 

外薗孝子 大石愛 磯崎裕子 たくみきえ 服部浩充 東海林倫子 関忍 山本大輔 原武博美 村川実和子 安永知子




当日配布パンフレットより


ごあいさつ  坂手洋二


 『沖縄ミルクプラントの最后』を書くに際し、私は自分自身に対して、「封じ手」三箇条を課した。
 一、「亡霊」を登場させないこと。 私の過去の戯曲の多くは、意図的にせよ無意識にせよ、現代における「複式夢幻能」のスタイルのバリエーションと呼べるものになっている。なにしろ「複式」だから「亡霊」が二回以上は出てくるのだ。一度目は現世の姿に身を変え、二度目は「亡霊」そのものとして登場するというその基本構造によって、その劇の「フィクション」としての位相は規定されてきたように思う。
 ラフカディオ・ハーンの「人間は生まれながらにして一個のゴーストであるにすぎない」という思想さえ、「理解できない」「そんなの当然のことである」という暴力的対応によって、風前の灯である。今や「亡霊」はナメられている。「幽霊はここにいる」といわれても、誰もがそうそう驚かなくなってしまったのだ。しかし心配は無用だ。ハーンの思想を理解するために必要なことは、「亡霊」を支持することではないはずである。
 この「封じ手」への対応策は明快であった。「亡霊を出さない」というのは、ただそう決めればすむ話だ。
 にもかかわらず、やはりこの劇は「複式夢幻能」になっているような気がする。どういうことなのだろう。
 二、「恋愛」を描かないこと。
 今やほとんどの「ドラマ」は、登場する男女(だけとは限らない)が恋愛関係にあるという設定が用意されているだけで、何がしかの「劇的」な要素を持つものとして流通しているようだ。タイタニック号の沈没さえ「身分違いの恋」の背景にされてしまった。皮肉屋の作家があの映画でタイタニック号の切符を賭けでとられた男(一分くらいは出演していただろうか)の話を描いたとしても、そこでも彼の恋愛が描かれるであろうことは容易に予測がたつ。
 私たちはのべつ発情しながら生活しているわけではないと思うのだが、今や多くの人々が、常に「恋愛」していることを自分の「常態」としているかのようだ。「恋愛」していないヤツは「どっか問題あるんじゃないの」と言われ、「恋人イナイ歴×年以上」なんて輩は「人間失格」扱いされることもしばしばである(らしい)。
 私の劇でも、途上中、成就後、過去形も含め、何らかの「恋愛」が出てこなかったことは、ほとんどないような気がする。
 「恋愛が描かれない劇」は困難なようだが、方法は単純である。登場人物たちに恋愛をさせなければよいのである。
 しかし「恋愛」を除去したところでも滲み出る「愛」の気配というものがあるとすれば、私たちはそれをわざわざ厭う必要があるだろうか。
 三、戯曲の構成上、プロットを先行させないこと。
 数日前、北村想さんの戯曲講座録を読んでいて、ハタと膝を打った。「『ストーリー』は素人はんにも書けまんな。そやけど『プロット』があらへんとハナシ(シバイ)になりまへんで」というような意味だったと思うが、それはどうやらホントである。修行時代の新藤兼人氏が師の溝口健二監督に提出した習作シナリオを「これはシナリオではない。ストーリーです」といって突き返されたというのも、有名な話である。どうやら戯作家は、事実経過の「筋(ストーリー)」だけでなく、「ハナシ」「ハコビ」「人物相互の関係性」といったものを描かなければならないということなのだ。
 しかし戯作家が、おおまかな「ストーリー」を見通すまではできたとしても、「プロット」を考えることが嫌になってしまったとしたらどうだろう。「ハナシ」「ハコビ」「人物相互の関係性」をオモシロオカシク考え、予定調和的に他人様に喜んでいただこうという営為を、セコイ、アザトイ、ミモフタモナイ、ナニサマノツモリと思いはじめ、筆が止まってしまったら。
 ……おそらくそれが、多くの遅筆劇作家と躁鬱症劇作家をうみだす所以である。劇作家が増えるほどこの症状も蔓延するはずなので、今後は劇作家協会の福利厚生部門の充実に期待するしかない。
 この症状に対する治療方法というか、対応策を考案してみた。
 舞台上に「事実」を提出する。その進行を追うという意味での「ストーリー」は当初から用意されている。しかし、ぎりぎりのところまで「プロット」を用意しない、あるいは想定される「プロット」を可能な限り多義的にしておく。
 これは「ストーリー」に「プロット」の要素を付け加えるのではなく、「ストーリー」をもとに、いわば「彫刻」の作業を重ねていく過程で、「プロット」を見出していくというやり方だ。「劇をつくる」ことを経て、なぜそれが演劇でなければならなかったか、なぜこの顔触れによってつくられなければならなかったかということが証明されていくのである。そして最終的には、しっかりした「プロット」を持つ作品として存在することができれば幸いである。
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 この劇の創作にあたり、何度か沖縄に行き、「沖縄ミルクプラント」の周辺を取材させていただきました。当事者・関係者の方々、資料をくださった方々のご協力に深く感謝致します。ほんとうにお世話になりました。心より御礼申し上げます。
 お断りしておかねばならないのは、この劇はフィクションであり、登場人物はすべて架空のものだということです。これは沖縄の反戦地主・知花昌一氏をモデルにした人物が「知花昌一」として劇中に登場した『海の沸点』とは違うところです。その時に比べて事実に反する部分の占める割合が多いというわけではありません。「沖縄ミルクプラント」は実在しますし、多くのディティールについてはその現実に即するように努力はしました。それでもあくまでもこの劇はフィクションとして構築されているとご理解ください。
 この劇のそもそもの始まりは、「反戦自衛官」たちの企画によるシンポジウムで、沖縄在住の写真家・石川真生さんを紹介され、彼女の写真集『これが沖縄の米軍だ』(高文研)に収められた、沖縄ミルクプラントの人たちを描く作品群と出会ったことによります。ミルクプラントや沖縄の米軍基地周辺の現状に興味を持たれた方には、石川さんの作品をお勧めいたします。

 劇中に登場する沖縄・米軍基地に関する用語などは、本土の人間や部外者には馴染みのないものも多いですが、基本的にそのまま使用しています。ただ「MLC」というコトバが、米軍基地における日本人従業員の日本政府雇用の制度であることは、あらかじめ知っていただいたほうが理解しやすいようです。彼らは米軍のために働いていますが、「思いやり予算」によって、日本政府から給料を貰っているわけです。ほとんどの基地従業員がこの制度の下にあります。その中で、沖縄ミルクプラントの従業員だけは、米国の民間企業の契約社員として、基地従業員の圧倒的多数とは異なる立場で働いていたのです。




早川書房「坂手洋二(2)海の沸点/沖縄ミルクプラントの最后/ピカドン・キジムナー」






 

工場という名の、戦場。

  

ここで作られた製品が、駐留米軍半世紀の生活を支えた。  

一兵卒も、将校も、同じミルクを飲んだ。  

基地内の子供たちの発育に貢献し、ベトナムの激戦地にも輸送された。  

……ミルクプラントの閉鎖は、単なる首切りか。  

それとも、アメリカが沖縄から撤退してゆく、一つの過程なのか。